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男性の認知症介護 [介護]

先日、学生時代の友人(男性)から電話がありました

他愛無い話の後、親の介護の話になりました

「僕、ダメだとわかっているけど死のうと思ったことあるんだ」と言われ

それを聞いた私は、しばし絶句

その後

「介護だけじゃないんだろうけど、大変だったんだね

 大丈夫だよ、生きていたらいっぱいいいことも起こるから!

 介護は、ひとりで抱え込んじゃったのね

 よく頑張ってきたのね

 相談できるところがあればよかったのにね」

と言ったら、無音になり

その後、号泣する声が聞こえました

私、男性を泣かせたのは生まれて初めてでどうしたらいいか

わからず激しく動揺・・・




介護を続けていたときから思っていたことがあります

女性は、井戸端会議的なところで発散できます

例えば、友人が

「お姑さんを見舞いに行ったら、おしっこで濡れて重くなった紙おむつが

私めがけて飛んできた!」と言えば

「よほど〇〇ちゃんのことがキライやねんなー」とか

「投げ返したらよかったのに!」と誰かが答え、みんなで大笑いになります

しんどい介護も、聞いてもらえる人がいると笑いに変えて

元気に家路につくこともできます

それに、女性は介護経験のある先輩から予備知識として話を聞くことも多く

自分が介護する立場になったときに思い出したり

相談することもできます



でも、男性の場合は介護の具体的な話を聞く機会も少なく

突然自分ひとりで介護を担うことになったときにどうしたらいいかわからず

元々「七人の敵」がいると思い企業戦士をしているタイプだと

自分の弱みも見せられない、相談しようという発想も起きず

在宅でひとりで頑張ってしまうケースがみられます

認知症と診断を受け、ケアマネさんと出会うまでが大きなハードルに

なっているようにも思います



この男性以外にも、働き盛りで認知症介護のために

仕事を辞めた人を何人か知っています



私は、父の介護の時に仕事を辞めて遠距離介護を始めたら

生活が回らなくなりました

この経験から、母の時は仕事を続けました

余命数か月とかわかっている介護であれば休職したかもしれませんが

認知症の介護は1年かもしれないけれど10年以上かもしれません

(実際、母の介護は12-3年でした)

そんな長期間無収入で介護を続けられる潤沢な資産があれば別ですが

介護が終わった時の再就職を考えると辞めるのは得策ではないと判断しました

特に大黒柱である男性は働いて収入を得て介護サービスを受ける方がいいと思います

介護を担う人が心身ともに元気でいることで穏やかな介護ができ

介護する側・される側お互いの幸せにつながると思います



介護で煮詰まっている男性がいたら

ひとりで頑張りすぎないで

SOSを出してもいいよ

息抜きをしても大丈夫、むしろ息抜きは大切!

まずは介護サービスを利用できるようなところまでたどり着けば道は開ける

心がしんどくても、ひとりじゃないよ!



そう伝えたいです




そして(文頭の)友人には介護中に起こった様々な出来事を

面白おかしく話したらすっかり元気になってくれました

ほんの少しでもガス抜きのお手伝いができて良かったです



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介護と相続 [介護]

昨日からマンションの木々でセミが大合唱をしています

梅雨・・・ひょっとして明けてる?と思いました

でも、よく考えると梅雨入りしたのがほんの少し前だったはずです




さて、今回は重い話題です

母の介護は、12-3年に及びましたが

介護から葬儀後の諸々までほぼ100%私が担ってきました

葬儀やその後の法事も全て段取りをして黒子役に徹したつもりです

親戚からはしばらく「ささやき女将」と言われました(苦笑)

そして、相続手続きに入り

好き勝手言われたときには「吠える女将」になってしまいました

「大暴れする女将」になろうかと思いましたが、踏みとどまりました(笑)




何事もやったことのない人には大変さや気持ちは理解できないのだろうと

痛感しました

例えば「施設に入っている母」は、簡単に施設に入ったわけでも

一人で手続きをしてお引越しをしたわけでもなく

そこに至るまでに何年にも及ぶ事件や入院・介護サービスや煩雑な手続きがあり

ついに自宅での介護は無理になって施設に入るという流れがあります





そして「◌◌だったら、××するのに~」と条件付きで言う人は結局しないというのが

大きな教訓になりました

本当に動く人は、そんなことを言う前に動いています



もし、この記事を読んで下さっている方の中に

介護は兄弟姉妹(やその配偶者)に任せっきりの方がいらっしゃるなら

相続の際には介護をしてくれていた人にまずは労いの言葉をかけてあげて下さい

それだけで、気持ちが救われる人がいます






そんなこんなで、私の心は数か月モヤモヤでいっぱいでしたが

長男でもない私が、両親の家もお墓もみることにしました

きっとその方が両親も幸せだろうと思ったからです

悩んで考えて・・・決めたらスッキリしました




ただ、実家は将来滅亡する運命にあるので

私が元気なうちに今あるお墓は何とかしておかないといけないという

重責が肩の上にドーーンと乗っかってきました




・・・ご存知でしたか?

「永代供養は、未来永劫ではないんです」

お寺で聞いたときには、気持ちが3メートルぐらい後ろに吹き飛ばされました

30年とか期間が決まっていることが多いらしいので

「期間」をしっかり聞いてから契約をして下さいね

それにお寺の「墓じまい」にもトータルすると数百万という莫大な費用がかかります

本来、人の気持ちを慰めるための宗教にそんなにお金がかかっていいのか

すごく疑問に思います





いつも私を支えてくれているたくさんの友人たちが

「ごはん食べに行こう~」

「温泉に行ってゆっくりしよう」

「大きな法要が終わって落ち着いたら一緒に旅行に行こう」と声をかけてくれ

私が始動するのを待っていてくれたので

これからしばらくは旅の記事になります

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全てが終わって・・・ [介護]

母の死後の数日間は本当に目まぐるしい日々でした

私は、子供の頃に祖父が亡くなったときに母が泣いていないのを見て

「なんて冷たい人なんだろう」と反抗心を覚えました

でも、自分自身がその立場になると正直悲しんでいる暇もなかったです



それに、病院で受け取った死亡診断書の死因のところに

「老衰」と書かれていたのを見て

「母は、病気ではなく身体の機能も全て使い果たして天寿を全うした」と思い

すごく安堵したのを覚えています

量が減ったとはいえ最後まで口から食べられて

一度も誤嚥性肺炎になることもなく

逆縁でもなく、枯れるように亡くなった

これが一番幸せな最期だったと思うと精一杯送り出してあげようと思いました

私の苦手な昔ながらの(こわーい)祭壇ではなく

暖かい色のお花で囲んでもらいました




告別式の後、初七日も済ませて帰途についたとき何故か

「焼肉が食べたい!!」と思いました(笑)

未だに食べていませんが・・・その時は、身体が肉を欲していました




その後は、週一回会社を休ませていただいて

役所や金融機関の手続き、公共料金や保険関係の名義変更

不動産の相続手続き、葬儀や四十九日の法要のためのお返しや準備に加えて

逮夜ごとのお寺へのお参りや、確定申告など目が回る日々でした

今度は「全てが終わったら、ゆっくり温泉につかりたい~」

身体と心が温泉を欲しました

人生、悲しい時も欲だらけ(笑)




そんな気持ちを、友人が察してくれました

ママ友が御供を持って、私の家に来てくれました

私の負担にならないようにと、お弁当やデザートまで持ってきてくれました

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いつも私のことを助けてくれる素敵な人たちです

今度、お泊り会をしてくれることになりました



別の友人も「お疲れ様でゆっくり温泉に行こうね」と言ってくれました



私にとって友人は何ものにも代えがたい宝物です





つい最近、母がお世話になったグループホームと特別養護老人ホームに

ご挨拶とお礼に行ってきました




認知症発症から亡くなるまで12-3年

今思うと介護の中で、施設に預ける前が一番苦しかったです

大阪と実家が離れていたこと

仕事中に警察や銀行から次々と電話があり何度も駆けつけたこと

昼夜逆転した母が真夜中に電話をしてくるようになったこと

家の中がめちゃくちゃになっていたり子供も小学生だったのと

お願いしていたデイサービスや訪問介護でも

母の生活は立ち行かなくなり、私も母に優しい気持ちにもなれず

心身ともにいっぱいいっぱいでした

でも、思い切って転居手続きをして大阪の施設にお任せしたおかげで

私は穏やかな気持ちで最初から最後まで接することができました

週に一度面会に行くようにしていましたが

私が穏やかだと、母も私のことを「泥棒」とかののしることもなく

優しく穏やかなままの母でいてくれました

一番親しい人を疑うとよく聞きますが、それがなかっただけでも幸せでした




四十九日のお焼香のときは、ぐっとくるものがありましたが

納骨のときには「早くお父さんと会って積る話をしてね」と

明るい気持ちで送り出しました





毎日母の話にお付き合い下さりありがとうございました

書くことによって、私も気持ちの整理ができました



来週からは週二回ぐらいのペースでまた通常の内容の記事に戻ります

写真がたまりすぎて、どこで撮ったものかわからなかったりします(笑)

ツイッターのように短い記事になるかもしれませんが

またお付き合いいただけると幸いです


ありがとうございました




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トラウマの克服 [介護]

私の子供たちは「骨」に対して異常に恐怖心を抱いて大きくなりました

それは叔父の告別式に、当時4-5歳の息子だけ連れて行ったときのこと

棺にお花を入れて、火葬場で棺を見送るところまでは平気だったのですが

再び火葬場に戻った時、遠目に見た息子が

「箱(棺)はどうしたの?あれ、なーに?」と聞くので

「あれは、さっきのおじちゃんの骨だよ」と答えたら

いきなりのマーライオンです

そのあとは、泣き叫んで近寄ることを拒み、私は息子を外に連れ出して

抱いていました





それ以降、息子は食事のたびに「これは何?骨ある?」と聞くようになり

半年くらい、骨のある食べ物が食べられなくなったり

夜中に「死んだら骨になる~」「骨怖い~!」と

悪夢を見て起きるという事態に陥りました

それを見た娘も「骨が怖い」と言い出してしまいました





それから5-6年経った頃、またお骨上げに行くことがありました

マイクロバスにしがみつく息子は、元夫のこわーい親戚にバスからひきはがされ

連れていかれました

そこで、しぶしぶ骨を見て「恐怖」を克服できました

でも、娘はマイクロバスに残ったままで克服できず

その後、私の父が亡くなった時も控室で待っていました



成人してからも、娘は

「お母さんが死んでも骨は拾えない」とさえ言っていたので

「私は息子にしか拾ってもらえないのね」と覚悟を決めていました(苦笑)




今回、お骨上げの時にはきれいなロビーで待ちながら

「怖かったらここで待っていたらいいから」と娘に言いました

「でもね、骨ってあなたが想像している理科室の骨格の模型みたいに

 リアルに人間の形をしているんじゃないのよ

 例えてみれば、白樺の枯れ枝かな・・・しかもバラバラになっているし」と

補足すると

「白樺の枯れ枝って・・・何なん・・・(苦笑)」と食いついて?きました

そんな会話をしているうちに、係の人に呼ばれて親族一同が収骨室に

移動することになりました

娘も「どこで待とうかな」って感じで移動

大きな扉を過ぎて、収骨室前で待機・・・と同時に大きな扉が閉められました(笑)

娘にしたら、大きな扉のところにひとりポツーンと残るのも怖い(笑)

仕方なくついてまいりました

遠目に眺めながら、落ち着いた様子で

「若い人なら、もっと骨が残っているの??」と聞いてきました

「きっとそうね、おばあちゃんは骨粗しょう症だったから

 人よりは残っている骨が少ないかもね

 そうそう、シンナーとか薬物を使用していた人は骨が残らないというのを

 聞いたことがあるわ~、実際に見たことがないからどこまで本当かしらないけど」と

話しました

係の人の説明が始まるまで、私は骨盤あたりの骨を見て

「ほら、見てごらん、おばあちゃんがしりもちをついて骨折したのが

 わかるよね、すごくスカスカだよね」と娘にじっくり見るように促しました




そして、収骨のとき

最初だけ二人で一つの骨を骨壺に移しました

「この場面、初めて見たでしょう

 だから『お箸とお箸で合わせて持つのはいけない』と言われているのよ

 縁起が悪いと言われることにはひとつひとつ意味があるのよ」と教えました



係のひとは、どこの骨かを説明しながら

「次の方、どうぞ」と促されました

私の次にいた娘はしっかり拾ってくれました



一巡したあと、近い親戚は再び拾って骨壺に移しましたが

まだまだ入りそうだったので

「故人様のことを思いながらどなたか入れてあげてください」と

係の人が言われると、娘はひとり前に出て

蓋がしまらなくなるぐらいまで入れていました(あっぱれ!)



私は、後ろからほほえましく見ていて、同時にすごく安堵しました

きっと、母が一番喜んでいたと思います



お骨上げが終わって、娘に

「怖くなかったでしょう?トラウマから脱出できて良かったね

 もう、大丈夫だね」と言ったら

「うん!」と大きく頷きました




かく言う私も、大人になるまでちゃんと人の骨を見たこともなく

昔の金庫みたいな火葬場の扉も怖くて怖くて仕方なかったのですが

父のときに、ホテルか美術館かというくらいきれいな火葬場になっていたのと

肉親ということでマジマジ見たことで怖くなくなりました

そういう意味では、26歳の娘の方が若くで克服したのかもしれませんが

とにかく「娘ちゃんおめでとう!よかったよかった!母はうれしいゾ~」という

ハッピーな気持ちで終わったお骨上げなのでした



悲しみの空間で不謹慎にもほどがある私???

まぁ、おおらかな母でしたから

「まぁ~、よかったですこと、ホホホ」とほほえんでくれていることと思います



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おくりびと [介護]

葬儀場に着くと、私たちは「親族控室」に案内されました

そこで始まったのは「湯灌(ゆかん)」という儀式です

父のときは、体を拭いていただいただけで、たぶん葬儀の基本プランにも

入っていなかったので、今回生まれて初めて見る儀式でした




でも、正直・・・「怖いんじゃないの??」と不安を覚えていました(汗)

大昔、死体をホルマリン?につけて洗う??バイトがあると聞いたことがあり

そのイメージだったのです(なわけない)



しかし、実際には全く違っていました

男女の納棺師さんが現れ、浅い浴槽にネットの担架みないなのをセットして

その上に母をのせて、親族が左手に持った柄杓で足元から胸のあたりまで

ぬるま湯をかけました

そのあとは、納棺師さんが体をシャワーで洗って下さるのですが

肌が見えないように一人の方がキレイな布を持って配慮をされていました

そして、頭はシャンプーをしてもらい、顔はエステ??と思うくらい

泡立てた石鹸?できれいにしてもらった後は、お顔そりまであってびっくりしました

体を拭いて頭はドライヤーで乾かしてもらった後は、布団に寝かせて

みんなで顔に保湿ローションや口紅を塗りました

肌がきれいな母だったのですが、湯灌のおかげで磨きがかかり

スッピン状態がうらやましいぐらいの色白で

納棺師さんもビックリの美しいお顔ができあがりました




私は、納棺師さんの一連の美しい所作を尊敬のまなざしで見つめていました

いつの間にか、最初に抱いていた恐怖心など全く消え去り

神聖な美しいものとして儀式に参加している自分がいました



最後のお別れの時まで、母はきれいなままでいてくれました

納棺師さんには心から感謝しています


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懐かしい自宅へ [介護]

ご訪問&nice本当にありがとうございます

とりあえず記録と記憶のため「書き逃げ」させていただいて

少しずつ皆様のところにご訪問させていただくことをお許し下さい




私は、母に万が一のことがあったら母が大切に守ってきた家に連れて帰り

寝かせてあげたいと思っていました

今回、その「万が一」が起こってしまったのですが

病院でお支払いを済ませたら寝台車を頼まなければいけなかったのですが

病院でもらったリストの葬儀屋さんと田舎の葬儀屋さんに電話をして

結局田舎の葬儀屋さんに全てをお任せすることにしました


同時進行で親戚やお寺さんにも状況を伝え、ひとりの叔母には病院に来てもらい

寝台車に一緒に乗って帰ってもらうことにしました

私は、叔母に母のことを任せて、タクシーで役所に死亡届を出しに行き

家に戻って用意していた荷物を取って、そのままタクシーで田舎に向かいました



私が実家に戻った時には、母はもう懐かしい部屋で寝ていました

母は、大阪の施設に入ってから全く田舎に帰ることはなかったので

一晩だけでもゆっくりしてほしいと思いました



その後は、延々続く葬儀屋さんとの打ち合わせや

お寺さんが枕経をあげに来てくださったりで気が付いたら夜遅くに

なっていて、その晩は従姉が一緒に過ごしてくれました

たまたまLINEをくれたママ友が「お手伝いに行きましょうか」と声をかけてくれたり

私が大変なときにはいつも心優しい人たちがまわりにいてくれて

本当に人に恵まれていると心から感謝したのでした




翌日は、朝からバタバタでこの日も葬儀屋さんと打ち合わせをしたり

叔母たちと選んだ遺影をお渡ししたり、棺に入れる母の愛用品や

認知症が出た頃に、私の娘がおばあちゃんに毎日書いていた絵手紙などを

選んでおきました

ご近所さんが母の顔を見に来て下さったりしている間に家から出棺する時間になり

寝台車には、母が大切にしていた場所を何か所か回っていただいて

葬儀場に移動しました



そこで待っていたのは、初めて見る「湯灌(ゆかん)」でした




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お別れは突然に [介護]

大変ご無沙汰しておりました

本当に久しぶりにブログの記事管理のページを見ましたところ

たくさんの方が再訪して下さっていて、ありがたく思いました

心からお礼申し上げます



ようやく、納骨も済ませ、一段落つきました

数回にわたって、備忘録の意味あいもこめて、介護の最後の記録を

残しておきたいと思います





昨年末ぐらいから、施設の方に「最近召し上がる量が減りました」とか

「お食事の時にスプーンを舌で押し出して嫌がられる・・・」等報告を受けていました

それでも甘いものや栄養ゼリーは口にすることがあったようです

お正月明けからも食べない日が多く、私はこの先どうなっていくのかを

ネットで調べたりもしていました



1月のある日「今日は(私の)祖父の命日だわ」と思いながら仕事をしていたのですが

その日の夜に施設から

「お母様が熱を出されましたが、インフルエンザや肺炎はありませんでしたので

 病院から戻って休んでいただいています」と言われました

その時、ケアマネさんとこれからも食べられずに衰弱していったときの対応策を

話し合いました

電話を切った後、叔母たちには伝えておきました

「そろそろ覚悟もしておかないといけないかもね」という話になりました



そして、その夜寝ているときに母の呼吸と脈がおかしいから救急車を呼びますと

電話がありました

運ばれる病院がなかなか決まらず、再連絡待ちの時間に着替えを済ませて

いざという時のためにいろんなものを準備してバッグに詰めました

1時間近く経って連絡が来たのですが、タクシーで外の景色を見ながら

「家からも会社からも施設からも遠い病院に運ばれて、これからどうやって

生活を回していこうかな。。。症状が落ち着いたら近くに転院させてもらえるかな」と

考えていました



病院に着いてから母に会えるまで1時間近く待ちました

その間に、付き添って下さった施設の人に会うことができて心強かったです

ようやく呼ばれた救急外来の部屋にはストレッチャーに寝かされて

鼻から酸素と、点滴を受けている母がいて

モニターを見る限り切迫感は感じませんでした



そのすぐ前でお医者様からパソコンのモニターで検査の数値やCT画像を

見せてもらいながら説明を受けました

心臓や腎臓の数値は良くなかったですが、治療していきましょうということで

私たちはいったん待合室に戻り、再び呼ばれた時には

「年齢も年齢ですので万が一のときには、延命措置はどうされますか」と聞かれ

「していただかなくて結構です」と即答しました

そして再び待合室へ・・・

座ろうとした瞬間に「急変です!」と後ろから大声で叫んで呼ばれました

その距離わずか数メーターだったのですが、母のところに駆け戻ったときには

母の息は絶えていました



モニターの数値は0になっていてアラームがけたたましく鳴り響いていました

数十秒前まで息をしていた母が亡くなっていることにただただ驚きしかなくて

数秒後には数値が「5」になりました

ひょっとして息を吹き返すのか、と思いましたが「0」に戻りました

亡くなってすぐなら耳はまだ生きていると思い

「お母ちゃん、ありがとう!!」と耳元で大声で感謝のひとことを伝えました

すぐに顔を上げたので、お医者様から「では、(死亡確認を)よろしいですか?」と

聞かれたのでうなずくと、確認作業が行われ死亡時刻が告げられました


「ここで私が5分間泣き叫んでいたら死亡時刻は5分ずれたのかな」とか

「病人のすぐ前で延命の話とかをしたから母は逝ってしまったのかな」と

緊急時にもかかわらず、変なことを考えてしまう自分がいました

そして、前日命日だった祖父が

「よくがんばった、そろそろ(こちらの世界に来ても)いいんじゃないか?」と

母を呼んだのだろうとも思い、いろんな思いが交錯しました



一瞬だけ涙がこぼれたものの、悲しみの感情はほぼなくて

私は一体何から手をつけたらいいのかと頭の中がぐるぐる回りました


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体重増加 [介護]

数週間前に母の便に血が混じることがあり、1週間の間に量が増えたと

連絡があり、診察をしていただきました

周りの高齢の人に大腸がんが続いていたので

ついに来たかと覚悟しましたが検査の結果は大丈夫で

座薬(下剤)を入れるときに傷ついたのかもしれないとのことでした



先日、面会に行ったとき母はベッドで眠っていましたが

職員さんが「せっかくなので起こしましょうか」と車椅子に座らせて下さいました

「ようこですよ~」と言うと上機嫌で

「まぁ、ようこさんですか、ほほほ」と答える母を見て

「今日はいける!!」と思い、叔母たちに電話をして話してもらいました

しっかり受け答えができて、叔母たちも大変喜んでいました

しばらく調子が良かったので、ご飯を食べさせてから帰ろうと思いました

ところが、2~3口食べた後はほとんど口を開けてくれなくなり

1時間かけて食べてくれたのは1割にも満たない量でした

少人数で食事のお世話をして下さっている職員さんは日々大変だと思います



認知症って本当に不思議です

さっきまでできていたことが、数分後にはできなくなる

その時には表情が変わっているのです

父の時も、スイッチが切り替わる瞬間を何度も目の当たりにしました

それだからこそ、調子の良い瞬間に楽しい話をしたり笑えることをしようと思います

「忘れてしまうからしてあげても、し甲斐がない」と言う人もいますが

「時の人」のことを思うと、その瞬間が「美味しい」「楽しい」「うれしい」と

感じてもらえたらそれでいいのではないかと思います

だから、最近はマイナスなこと暗い話は母にはしないことにしました

感情はしっかり残っているので誰かが亡くなったとかいう話をすると

すごく苦しそうな表情をするのです



さて、母の体重ですが元々が何キロだったのかは私は知りませんが

小さい人なのでたぶん40キロはなかったと思います

それが、数か月前には26キロと聞いて目が回りました

食べないのでどんどん手足は細くなり、手の甲は骨と血管が浮き出て

指の付け根の部分は水かきみたいになって向こうが透けて見えそうです

少しずつ体重は戻って今は31キロになりました

それでも私の体重を5キロぐらいあげたいくらいです



今は体重も落ち着いているので食事量に波があっても大丈夫と言われましたが

熱中症や脳梗塞が心配なので水分はとても重要

栄養ドリンクだけは全部飲むまでねばりました



本当は以前のように廊下を歩いてお散歩してもらいたいのですが

あまりにも足が細すぎて、支えるのにも不安がある今日この頃です


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産んでくれてありがとう [介護]

私の誕生日に母に会いに行きました

最近は、ベッドで寝ているシーンしか見ない母ですが

とりあえず声をかけてみます

「来たよ~、今日は(私の)誕生日だよ~」と言うと

「誰のですか?」と返事が返ってきました

「ようこの誕生日よ~」と言うと

「ハハハ、そうですか~」と目を閉じたまま返事をする母です


「産んでくれてありがとう!」と伝えると

「オーホッホホ、そうですか~」と嬉しそうに笑っていました

とても調子が良かったので叔母にも電話をかけて話してもらいました




この日は、朝から娘と息子、友人からメッセージが届きました

夜には娘がプレゼントを持って来てくれました



一人暮らしを始めた娘のことは、ちゃんとご飯を作っているかなとか

部屋の掃除はしているのかなと心配をしていましたが

何とかやっているようです



私は、いつも「子供たちにとって母の味って何なのだろう」と思っていました

この日、娘が鶏の照り焼きと長芋グラタンの作り方を教えてと言いました

初めて、娘にとっての母の味を知り、作り方を丁寧に伝授しました



娘が届けてくれてた誕生日プレゼントです

濃厚チーズケーキは本当に味が濃くてこれまで食べた中でもトップクラスで

一切れを娘と食べた後、二切れ目を赤ワインと共にいただきました

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数人の友人からは服やお酒が届きました

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ゆっくり味わっていただきます


感謝感謝の一日でした




この一年も元気に楽しく過ごしていくことができればと思っています

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まさかの [介護]

暑いです

暑すぎるので髪の毛を20センチぐらい切ったらちびまる子ちゃんになりました



紙オムツを持って病院に行ったら、4日分病院から支給していただいていた分を

現物でお返しすることになり、あっという間に袋の中身が減りました

オムツはテープ止めタイプの中に尿とりパッド2枚を重ねます

オムツ交換は2時間ごとに行われ、尿とりパッドは小・中サイズを2枚重ねされて

いるので、尿とりパッドは2時間でMAX2枚使います

(1枚が汚れていなければそのまま使います)

まさかそんなに使うなんて思っていなかったので、また買いに行きました(泣)



そして、パジャマやタオルなどは日々汚れるのでビニール袋に入れられていて

持って帰って洗濯をします

これからしばらくは会社帰りに病院です



贈り物上手の叔母が以前にランドリーバッグと病室と気分を明るくする

カラフルな色のキルティングバッグを母のために下さいました

経験に基づいた贈り物というのは本当によく考えられています

今回それらを使わせてもらっています



病院に行ったら、ごはんを食べさせたり、他にもたくさん必要なものを

言われて買い物に出かけることになったので会社を休んでしまいました



病室は広い個室だったのですが

テレビはプリペイド方式ではなく普通に点いていてソファーも立派だったので

「最近の個室はサービスがいいのね」と思いました

ところが、部屋を見渡すと他にドアが二つあり

立派なお風呂とウォッシュレット付のトイレがありました

「ま・・・まさかの特別室[exclamation&question]」と思ったらアタリでした[たらーっ(汗)]

「マ~ジ~ですか(苦笑)」とまた思いました


でも、父の時のように免疫力が落ちているときに大部屋にいて

MRSAにかかっても困るので、短い期間だし、まっいいかと思いました





バタバタしながらもミッションをこなして、マンションの敷地に入ろうと

自転車のハンドルをきったとき、目の前の地面におばあちゃんが倒れていました

危うく轢きそうになりました(汗)

慌てて降りて「おばあちゃん、大丈夫ですか?」と声をかけながら顔の方に向かうと

地面に血が流れていました(ぎゃー)

どこが出血源なのか見極めるために声を掛けながら調べると顎でした

でも、おばあちゃんはしっかりしていたので声を掛けながら体を起こしてもらって

ティッシュで顎を押さえて、頭を打っていないかとか他は大丈夫かとか

名前や部屋番号、かかりつけの病院名などを聞きながら

通りかかったマンションの住人に管理人さんを呼んでもらいました



管理人さん、おばあちゃんを見るなり「●号室の◌●さん!」と言われ感心しました

人数が確保できたので、私は熱中症予防のため(糖尿病や塩分制限などがあるかも

しれないので)水を買いに行きましたが、戻ってみるとおばあちゃんは

涼しいところに移され、救急車を待っている間に、管理人さんがおばあちゃんの

緊急連絡先の載った台帳を出してこられていました

「このチーム、最強!!」と思いました



救急隊員の方が傷の箇所を見て、

おばあちゃんにいろんな質問をされて脳や熱中症、他の負傷箇所がないか確かめ

結果おばあちゃんの意思もあり、着替えてから病院に行くという

ことで事なきを得ました



私、第一発見者になったのは初めてのことでびっくりしました

まさか続きの一日でした



救急隊員さんがヘルメットを忘れて行きそうになり

「商売道具をお忘れですよ」と渡すと大笑いになりました


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